東京ディズニーランドは弱小企業の最大なプレゼンによってやってきた

Disney

東京ディズニーランドってなんで舞浜にあるの?

と一度でも考えたことありますよね?

2021年4月15日で38周年を迎えた東京ディズニーランドですが、そもそもウォルト・ディズニー・カンパニーは日本にディズニーランドを建設する予定がありませんでした。

では一体なぜディズニーランドが日本の舞浜にやってきたのでしょうか

今回は

海外初のディズニーランドが日本の舞浜にある理由

をご紹介します。

みら
みら

ウォルト・ディズニー・カンパニーが「20世紀最大の失敗」と東京ディズニーランドを表現した理由もご紹介します!

こんな人におすすめ!
・東京ディズニーランドが舞浜にある理由を知りたい人
・東京ディズニーランドが「20世紀最大の失敗」とウォルト・ディズニー・カンパニーに言わせた経緯が気になる人
・ディズニーについてより詳しくなりたい人

この記事を読むだけで、東京ディズニーランドができた背景をしっかりと把握できるので、ぜひ最後までご覧ください!

世界初の海外ディズニーはヨーロッパにできる予定だった

1971年に第二のテーマパークとして、フロリダ州オーランドにウォルト・ディズニー・ワールドが誕生しました。

現在は4つのテーマパークが運営されていますが、開演当時はマジック・キングダムのみでした。

オープニングでひと段落したディズニー・プロダクション(現ウォルト・ディズニー・カンパニー)が次に着手しようとしたのがEPCOT計画です。

EPCOT計画とは、ウォルト・ディズニーが生前最後に描いた「実験的未来都市 エプコット(Experimental Prototype Community of Tomorrow)」という夢を実現化させるプロジェクトです。

EPCOT計画のために資金を必要としていたのですが、現在の事業だけでは調達することができないとディズニー・プロダクションは判断していました。

そこで、ディズニーランドを海外に現地資本で建設し、ライセンス料を得るプランを練ったのです!

みら
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海外ディズニーランドが意外と現実的な理由で建設されていたことに驚きです。

そして、ディズニー・プロダクションには「ディズニーランドを我が国に!」と世界18カ国から誘致の招待が来ていたのです。

当時、ディズニー映画はフランスをはじめとするヨーロッパ・メキシコを中心とした中南米で多く興行収入を高く得ていました。

そのため、ディズニープロダクションはディズニー映画の原作が多いヨーロッパにディズニーランド建設を計画していたのです。

ウォルト・ディズニー本人から強い不信感を持たれていた日本人

Wikipedia参照

これって…ディズニーランド?

と上記の写真を見て思った方も多いのではないでしょうか。

実は、この遊園地を建設したことによってウォルト・ディズニーが日本人に強い不信感を抱いた幻のディズニーランドこと奈良ドリームランドです。

奈良ドリームランドは実業家松尾國三によって、1961年から2006年まで開業されていた遊園地です。ピーク時の1970年代には年間150-160万人が訪れるほど人気がありました。

1950年代末期、松竹系列の千土地興行という不動産が奈良の旧日本軍の兵舎跡に遊園地を造る計画を立てていました。

50年代にディズニー映画の配給権を持っていた大映を通して、「将来、一緒に日本で事業をしたい」という名目でディズニー・プロダクションに接近したのです。

当時はディズニー側も快く了承をして、アナハイムにあるディズニーランドの裏側まで見学させています。

みら
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日本独自の遊園地を造ることを条件として、ディズニーのノウハウや技術者の派遣を全て無償で提供していました。

しかし、ここで亀裂が入ります。

千土地興行は、独自の遊園地ではなくディズニーランドをそっくり真似た遊園地を開園したのです!

開園前から「日本版ディズニーランド」と広告で謳っていた奈良ドリームランドは、生前のウォルト・ディズニーに対して強い不信感を与えました。

みら
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ミッキーの前に誕生していたうさぎのオズワルドというキャラクターも使用権を奪われていて、無断で模倣されることを強く嫌がっていたので当然です。

そのため、ディズニーランドの誘致に日本も参加していましたが、他国より圧倒的に交渉で不利な状況が続いていたのは当然の結果です。

富士山の麓にディズニーランドは誘致されていた

ディズニーランドは富士山の麓に建設される予定だったという噂を聞いたことありませんか?

これ、本当なんです。

浦安(現舞浜)にディズニーランドを誘致したのは、後に紹介するオリエンタルランドです。

一方、オリエンタルランドよりも先にディズニーに日本へ誘致していた企業があります。

それが、三菱地所東映です。

三菱グループ・東映とディズニーの関係
・三菱電機が日本テレビで「ディズニーランド」(1958-67)という番組を1社提供
・三菱銀行が預金通帳にディズニーキャラクターを起用
・東映がディズニー映画の日本での配給権を所持

1974年初夏には、三菱地所と東映はディズニー本社に訪れて16mmのプレゼンテーション用の映画を使用してまで、ディズニーランド誘致に積極的な姿勢を見せていました。

みら
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三菱と東映は、ディズニーランド内に日本の昔話を使用したアトラクションを建設する予定だったそうです!

圧倒的不利だったオリエンタルランド

読者
読者

そもそもオリエンタルランドって何?

と疑問をお持ちの方もいますよね?

オリエンタルランドとは、千葉県浦安の埋め立て計画遂行の為に京成電鉄三井不動産によって創設された会社です。

また、オリエンタルランドはディズニーランド運営の為に設立した企業ではありません。

オリエンタルランドができた1960年、 千葉県が県の予算で行うべき263万坪の埋め立て工事を請け負い、115万坪を安値で払い下げてもらう為にできた会社です。

安く払い下げる条件として、千葉県民の雇用と遊園地を造ることが必須でした。

当初はオリエンタルランド独自のレジャー施設を考えていました。

しかし、初代オリエンタルランド兼京成電鉄社長の川崎千春が「ディズニーランドを日本の子供にも楽しんでもらいたい」という夢によって、ディズニーランド誘致が本格的に始動したのです。

社員が3人のオリエンタルランド

京成電鉄と三井物産の資本で設立したオリエンタルランドは、京成電鉄本社(東京上野)の中に作られて、机が三つ置かれた状態でスタートしました。

また、社員も川崎千春初代社長・加賀見俊夫現社長を含めた3人しかいませんでした。

みら
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加賀美現OLC社長は、現在では”Disney Legends”という名誉ある賞も受賞しています。

オリエンタルランドは、三菱グループや東映とは異なり、ディズニー・プロダクションと一切関係がありませんでした。

1961年からオリエンタルランドはディズニー・プロダクションとの接触を図っていましたが、先ほどご紹介した奈良ドリームランドの件があり、10年以上コンタクトを拒否されていた歴史があります。

【とにかく揉めた】舞浜埋め立て計画

舞浜ってそもそも何があった場所なの?

今は「舞浜=ディズニーランド」ですが、そもそもこの地区は埋立地でディズニーランドができてから舞浜と名付けられました。

ディズニーランドが建設される前、浦安には多くの漁師が住んでおり漁業が盛んだったのです!

漁業として生計を立てている家庭が大勢いる中での埋め立てです。

想像の通り、多くの漁師が浦安の埋め立てを反対しました。

そんな状態で

なぜ埋め立てることができたの?

と思いですね?

実は、一人の男がたった数ヶ月で漁師を味方につけたのです。

その男が高橋政和氏です。

よくテレビでも見かける東京ディズニーランドの開園の様子ですが、ここでテープカットをしている人物が2代目社長の高橋政和です。

高橋はとてもお酒が強い方であり、右に出る人物はいませんでした。

そんな高橋に白羽の矢を立てたのが当時の三井物産社長の江戸です。

日本石油(現新日本石油)で働いていた高橋ですが、江戸の紹介でオリエンタルランドに入社して、浦安住民の漁業権放棄に努めました。

高橋のやり方はいたって簡単です。

浦安の漁師を高級店に連れて行き、毎晩飲み明かすことです。

もちろんオリエンタルランドが全ての食費代を出しています。

みら
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酒豪同士の飲み会なので、相当の金額が毎日川崎社長の元に請求されていたそうです。

度胸のある高橋は多くの漁師の心を掴み、最終的に高橋が「絶対に素晴らしいものを作ってみせる」と漁師との約束を交わして、浦安の漁業権の放棄に結びつけました。

小さなオリエンタルランドが使った大きな魔法

時は流れ、1974年12月1日の昼下がり、ディズニー・プロダクションの経営陣が羽田空港に降り立ちました。

みら
みら

航空事故で全員が亡くなるのを防ぐ為に、航空機2機で経営陣が降り立つほどの最高なメンバーが日本の地にやってきたのです!

目的は、三井と三菱のディズニーランド誘致のプレゼンテーションです。

ディズニーとの関係が無かったオリエンタルランドはかなり不利な条件でしたが、オリエンタルランドには最強な男が控えていました。

とにかく想像させる!最強の男が行なった【誘致プレゼン】

いきなりですが、

ホーンテッドマンションの声優って誰だろう?

と考えたことありますか?

実は、ホーンテッドマンションの案内人の声を担当した人物が、オリエンタルランドにディズニーランド誘致に大きく貢献した人物です。

当時電通からオリエンタルランドに出向していた堀貞一郎です。

堀貞一郎は、日本で知る人ぞ知る名プロデューサーです。

そんな堀の師匠は小谷政一です。

小谷政一って一体誰?

と大半の人が思うでしょうが、誰もが知っている功績を数多く残しています。

堀貞一郎の師匠「小谷政一」の功績
・日本初のテレビCM放映
・日本初の民放ラジオ局設立
・百貨店最上階での催しイベント
・野球実況開始
・パ・リーグ設立

現在の私たちが何気なく行なっている行為自体が、小谷が作成したものなんですよ!

さて、名プロデューサーである堀が行なったプレゼンテーションとは

成田に旅客機がガーッと降りて、高速道路をビューッとクルマで都心まで飛ばすと….

エンタメの夜明け

ディズニー最高経営陣に向かって、日本語でいきなりプレゼンをしたことです。

普通なら日本語で言ったものを英語に通訳していきますが、堀は通訳を無視して全て日本語で勢いよく話していきました。

ディズニー・プロダクションの会長だったドン・テータムはその姿に「ストップ!」と声をかけて、一度は会場が凍りつきました。

しかし、

われわれはとんだ間違いをしていたようだ。(中略)ミスター・ホリ、きみの日本語はよくわかる。われわれは、日本語を勉強してくる必要がなかった。

エンタメの夜明け

という気の利いた発言によって、会場が笑いに包まれたそうです。

プレゼンテーションは、一度会場がほぐれたらプレゼンする側は余裕を持って挑むことができて、受ける側も本気で聞こうという姿勢になります。

堀は、見事にディズニー経営陣の心を掴み、真剣に話しを聞いてもらえる空間を作り出したのです。

自分のお気に入りが必ず出てくる魔法の冷蔵庫

当時弱小企業だったオリエンタルランドは、経営陣の移動時間まで気を配っていました。

浦安への移動時間をディズニー経営陣に短く感じてもらう為に、昼食の時間に当てたのです。

みら
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フルサイズのバスですが、15人ほどしか乗れないとても豪華なバスを手配したそうです。

食事も経営陣が日本来日4日目だったことに合わせて、ステーキを選択しました。

しかも、帝国ホテルのシェフに「値段は気にしないから、アメリカ人が一度食べたら時を忘れるランチを作ってください」とお願いしたそうです。

みら
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まさに「おもてなし」ですよね!

そして、極め付けは魔法の冷蔵庫です。

小さな冷蔵庫を前に、鮮やかな振袖を着たコンパニオンが食前注文をとっていました。

その際に必ず「お飲物は何にいたしましょう。遠慮なくご注文くだいさい。なんでもございますから。」と言っていたそうです。

ディズニー経営陣は疑心暗鬼に注文していましたが、注文されたものは必ず冷蔵庫の中から出てきました。

この魔法に経営陣一同仰天し、1人が「あれはアイスボックスじゃなくて、マジックボックスだ」とも呟いたようです。

もちろんこれには仕掛けがあります。

なんとディズニー幹部が昼食やパーティーの席で日頃どのような食ドリンクを飲んでいるかについて事前に詳細なレポートを入手していたそうです!

そのレポートを元に注文パターンを分析した結果、小さな冷蔵庫で済んでいます。

みら
みら

まさに情報を制する者がゲームを制すですね!

ヘリコプターで舞浜から新宿を周遊

多くの情報を元におもてなしを体現しているオリエンタルランドですが、舞浜に着いてから本気を出しています。

まず、ディズニー経営陣が浦安に着くと浦安市長が歓迎の挨拶をして、子供たちがアメリカの国旗を経営陣に向けて笑顔で振りまいています。

みら
みら

ディズニー・プロダクションは当時、カリフォルニア州レイク・タホに建設予定だった『ミネラルキング・スキーリゾート』を住民達に猛反対されて、計画破綻していました。

そして、ディズニーランドの建設予定地に到着すると、オリエンタルランドの社員が寒風の中カラフルなテープをくくりつけた竹棒を持って立っています。

経営陣達は彼らを一望できる高台へと案内されて、どこに何ができる予定かを紹介しました。

みら
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プレゼンテーションはここで終了しましたが、最後の決め手が待っています。

なんとヘリコプターが舞浜に降り立って、経営陣がヘリコプターから東京周遊をしたのです!

また、池袋のサンシャイン・ビルが建つ前で、当時の日本一高いビルは新宿の三井ビルでした。

川崎千春社長は

これが日本一高い三井ビルです。東京ディズニーランドの施工には、このビルを建てた三井があたります

エンタメの夜明け

と経営陣にヘリコプター内で告げました。

オリエンタルランドの壮大なプレゼンテーションによって、わずか3日でディズニーランドの権利をオリエンタルランドでつかんだのです。

みら
みら

当初は、三菱と三井のプレゼンテーションの後に再度会議を開いて誘致場所を決定する予定だったそうなので、オリエンタルランドのプレゼンがいかにディズニー経営陣の心を掴んだかがわかりますね!


東京ディズニーランドの誘致における歴史をより詳しく知りたい人は是非「エンタメの夜明け」を読んでみてください。

みら
みら

エンタメ界のマネジメントについてよく学べるので、ディズニー好きでない人でも1日で読み切れるほど内容が濃くドキドキする内容ですよ!

【20世紀最大の失敗】はオリエンタルランドに運営させたこと

これまで、当時ディズニー・プロダクションが、EPCOT計画の資金回収を目的に造られた東京ディズニーランドの歴史をお話してきました。

しかし、これが後にアメリカで「20世紀最大の失敗」と呼ばれてしまいます。

海外のディズニーランドは、日本以外に上海・香港・パリの3都市にあります。

東京ディズニーランドはオリエンタルランドが所有していますが、他の海外パークは全てディズニー社が資本提携を結び運営をしています。

なんと!その理由が

東京ディズニーランドが想像以上に商業的大成功を遂げてしまったからです。

当初ディズニー経営陣は、海外でディズニーランドが人気を博すかわからない状況でした。

その為、成功しても失敗してもディズニー・プロダクションには利益がしっかりと入るようにライセンス契約を結び、運営には手出しをしないことを決定していました。

ディズニー・プロダクションはなんで日本で成功を収めることを計算できなかったの?

ヨーロッパや中南米よりも興行収入が少なくて、人気があるかもわからなかったのが1つ目の理由です。

しかし、ディズニー本社が日本人独特のの文化を全く理解していなかったことが潜んでいるのです。

日本人は【お土産】が大好きなことを知らなかったディズニー本社

アメリカのディズニーパークの大部分を占める収益は飲食です。

一方、日本人ゲストはディズニーランド内でほとんど飲食をしていません。

飲食は我慢するのに、なんで東京ディズニーランドは売り上げが高いの?

ディズニーランドに行った時、「お腹すいてるけど、お土産買うから我慢しよう」と思ったことありませんか?

実は、日本人ゲストはお土産にとてつもなくお金を費やしているんです!

学校や職場にお土産を買って帰ろうという文化も実は日本独自の文化ですよ。

みら
みら

お土産文化に疑問を持っていた私は、多くのアメリカ人ゲストに質問したことがありますが、「アメリカでは誰かにお土産を買っていく概念がない!」と教えてもらいました。

ファストフード系の飲食の場合、高くても1つ1000円くらいですよね。

一方のお土産は最低でも1000円はします。

そのため同じ個数売れても、日本のお土産の売り上げの方が圧倒的に高いですよね!

綺麗好きな日本人がオリエンタルランドの人件費を下げた

ディズニーランドのキューライン(アトラクションの列)ってなんであんなに凝ってあるの?

ディズニーランドが他の遊園地と異なる点は、キャストがキューラインの間にほとんどいない点ですね。

また、注意事項も全て映像で解説されています。

凄く凝ってあるように見えますが、実は人件費削減を考慮した設計になっているんです。

みら
みら

人件費を削減するためにも、ディズニーランドではアルコールの販売を中止しているんですよ!

アルコールの販売は中止されているのですが、開園当初はタバコはパーク内で普通に売られていました。

その結果、タバコが多くポイ捨てされて、アメリカではカストーディアルを多く必要としていたのです。

一方では、1964年の東京オリンピックの影響で、公共でのマナーを多くの人が身につけていました。

多くのゲストがゴミ箱にゴミをしっかりと入れていたため、カストーディアルもアメリカほど必要ではなく、結果として人件費の削減に繋がったのです。

ジュラシックパークが教える【テーマパークが成功するマーケティング】

スピルバーグ監督が映画化した映画「ジュラシック・パーク」の原作をご存知ですか?

原作はマイケル・クライトンが書いていますが、テーマパークが成功する秘訣が多く載っていたり、遺伝子の著作権について説明していたりと物語以外に重要な内容が多く描かれている作品です。

みら
みら

このような豆知識がスピルバーグに響いて、映画化されました!

実際にディズニーランドもクライトンが述べている秘訣を実践して、成功に導いています。

知識をインプットするためにも、是非原作の「ジュラシック・パーク」を読んでみてください。

たった1人の夢が「20世紀最大の失敗」と言われるほどの大成功を遂げた

今回は、海外初のディズニーランドが舞浜にやってきた歴史をご紹介しました。

オリエンタルランド初代社長である川崎千春氏が、仕事でたまたまアナハイムのディズニーランドに訪れたことで描かれた夢が始まりです。

今では東京ディズニーランドがあるのは当たり前の話ですが、もし川崎がディズニーランドに訪れなければ、高橋が漁業権を放棄に尽力しなければ、堀の史上最大のプレゼンテーションがなければ、日本にディズニーランドが造られることがありませんでした。

ディズニー・プロダクションが持っていた日本に対する不信感を持っていたのにも関わらず、日本にディズニーランドを造ると決心するまで持っていったのですから、私たちが想像する以上に彼らが全身全霊でディズニーランド誘致に取り組んでいたことがわかります。

次回東京ディズニーランドに訪れる際は、ただ遊びに行くだけでなく彼らの想いも感じながらパークを周ってみてください。

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